きっかけは東日本大震災、復興支援のNPOに飛び込む
ー「NPOで働く」は、いつ頃から考えられていたのでしょう?
よくいただくご質問なのですが、「NPOで働こう」と考えたことは、実はなかったんです。
普通に会社員として働いてましたし、恥ずかしながらボランティアをする人を見ても、「なんでこんなに仕事が忙しいのにそんな時間があるのか?」と思っていたので‥
学生時代もボランティアやNPOには参加しておらず、体育会に所属して専ら陸上の中距離を走っていました。
新卒で東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドに就職して、経営戦略部で主に予算編成・管理、中長期戦略策定といった業務を担当していました。
転職もしてビジネスパーソンとしてのキャリアが充実してきたかなと思った頃に起こったのが、東日本大震災でした。
ゴールデンウィークに友人を誘って訪れた被災地でのボランティア。
草むしりや瓦礫の撤去などをしたのですが、そこで心を動かされたんですね。
こんなに多くの人たちが、東北の復興のために頑張っている。
私もそんな善意の輪に加わりたい。
そんな気持ちが芽生え、毎週のようにボランティアに通うようになったのですが、そこで価値観が大きく変わるできごとがあったんです。
ーどんな出来事でしょう?
とある地域の避難所でボランティアをしていた時の初老の男性との出会いです。
その男性は周りの人たちを励ましながら、地域の活動にも熱心に取り組んでいて、素晴らしいなと思っていたのですが、実は津波で奥さまと娘さまを亡くしていたと別の方から聞いて知りました。
ご自身もつらいだろうなかで、それでも人を支えようとする。
その姿に心を動かされました。
そんな体験も経て、夏が近づく頃には仕事より東北のことで頭がいっぱいになってしまいました。
最初の質問への答えになりますが、私の場合は「NPOで働きたい」というよりは、「東北で頑張っている人の力になりたい」と思うようになったのが転職の理由でした。
ーボランティアが“本業”に変わるまでは、何があったのでしょう?
はい、ボランティアをしていくなかで、「ちょっともったいないな」と感じることもあったんですね。
たとえば、“無駄だなと感じる作業”も少なからずあったこと。
“荒地の草むしり”のように、「来てくれたボランティアのために作業をつくった」かに見えた事例もありました。
せっかく「東北のために」とたくさんの人たちが想いを抱き、時間やお金を使って支援しているのだから、それを最大限に活かして復興に役立てたい。
「復興のために、もっと時間を使えないか?」
「もし私がフルタイムでコミットすれば、もっと貢献できることがあるのではないか?」
そんなモヤモヤを抱えていた時に、東北復興のため現地調査や政策提言などをしていた藤沢烈さん(現一般社団法人RCF代表理事)に出会いました。
2011年8月、勤めていた会社を退職。RCFに参画し、本業として東北復興に取り組むことにしました。
「想いだけでは続かない‥」社会性とビジネスの両立に、舵を切る
ーそれまでとはだいぶ違ったお仕事ですね?
はい、業界も職務内容も全く違いました。
「キャリアアップ」という意味では決して合理的な選択ではないですよね‥
でもやってみたら、ビジネスの経験も活かせるところもあると実感しました。
その頃は復興支援団体も多く現地に入っていたし、私と同じようにボランティアに来ていた人たちもたくさんいた。
ただ、2年目3年目と続けて活動できる団体は、それほど多くはなかったんですね。
ーなぜ続かなかったのでしょう?
やっぱりお金が回らないと、続けられないんです。
事業で収益を出すにしても、助成金や寄付を受けるにしても、「きちんと計画を立て実行する」という当たり前のことや「価値を提供して事業が持続可能になるような対価を得る」ビジネスの視点が求められます。
復興支援が一過性のブームに終わらず、継続的な取り組みとして成果を挙げられるようRCFでは、
- 民間・行政・NPOをつないだ、事業連携や政策提言
- 地域の課題を地域の方々と一緒に解決する、コミュニティづくり
- さまざまなステークホルダーとの対話やコーディネート
といったことに取り組みましたが、経営戦略の視点や事業計画の策定といったこれまでの経験も活きました。
とはいっても、そういった構想が事業として成り立つのか、当時は正直分かりませんでした。
売上も当時は少なく、私の給料も新卒の初任給の半分くらいでしたから。
ーそれは大変でしたね‥続けられたのでしょうか?
当時は独身でしたし、個人としては長くない期間であればやっていけると考えていました。
フルタイムは代表の烈さんや私を含めて数人だけ、あとは学生インターンとプロボノ・副業でのサポートの方が数名ずつといった規模でした。
でも、事業として組織として、もちろん個人としてもサステナブルではないですよね。
実は、事業を立ち上げて1年半くらい経った頃、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論をしていたんです。
RCFの活動は東北の方々も含めて、さまざまなステークホルダーに一定の評価をいただいていました。
でも、復興支援の熱も時間とともに冷めていくはずだし、事業として継続・拡大していくのか?それとも自分達にできる範囲の小規模の活動として取り組んでいくのか?と団体の方向性を検討していたんです。
ーさまざまなNPOで起こる議論だと思います。どのような結論に?
私は、「意義ある活動だからこそ、さらにインパクトを出していきたい」と。
そのためには人材を集める必要があるし、きちんとした給与を払わなければ続かない。
クライアントである行政や企業に価値を認めてもらい、しっかりと価値を提供してそれに対する対価もしっかりといただき、社会へのインパクトを創出していける組織をつくっていきたいと。
2013年の年明けに、社会的インパクトとビジネスの両立を目指す方針を定めました。
ー賭けでもあったと思いますが、結果はいかがでしたか?
ありがたいことに、企業や行政機関などの関係者も応援してくださいました。
Googleさんやキリンホールディングスさん等名立たる大企業の、復興支援やCSV活動などをコーディネートさせてもらいました。
RCFに参画するメンバーも増え、社員数は60名を超えるまでになりました。
ソーシャルビジネスを手がける企業に転職。新規事業の責任者に
ー事業も軌道に乗ったなか、岡本さんは転職されましたね。なぜでしょう?
私のなかでは、コンサルティングやコーディネートではなく、「自分で立ち上げたサービスをもっと成長させたい」という想いが強くなっていきました。
RCFの仕事は、自分達でサービスをつくり出すというよりは、企業や行政、地域住民などのニーズを汲み取りながらコーディネートし、「コレクティブ・インパクト」を創出する、という考え方です。
また、資金調達の方法もNPOは株式を発行できないので、事業で出た利益を再投資していくのが基本です。
一方で、社会に本当に必要なサービスは、初期は赤字を出しながらでも成長させていくことが必要な場合もあります。
もちろん寄付や助成金などNPOならではの手段もありますが、調達できる資金の規模は少なくとも当時はまだ大きくない状況でした。
そんななか社会性のあるサービスを、株式などで資金調達しながら自身で主導してつくっていきたい。
という想いを抑えきれなくなりました。
ーそして転職を?
実は、初めは起業を考えていました。
ちょうどそんな時に、ヘッドハンターを通じてLITALICOから声をかけてもらいました。
株式会社LITALICO(リタリコ)は、「障害のない社会をつくる」というビジョンを掲げた社会的企業です。
障害者向けの就労支援サービスや、発達障害をもつお子さん向けの学習教室などを手掛けていました。
転職した頃(2016年当時)は、売上が約70億円、1,500人以上の従業員がいました。
ゼロから自分で事業を立ち上げるよりは、LITALICOが築いてきた資産を活用して新規事業を立ち上げていく方が、社会的なインパクトを広げていけそうだと感じました。
そう考え、約5年間経営メンバーとして勤めたRCFを2016年に退職し、LITALICOに入社しました。
当時立ち上がったばかりの新規事業を、責任者として成長させる役割を担わせてもらうことになりました。
「マネジメント力」はじめ非営利セクターでの経験は、企業でも大いに活きた
ーどのような事業に取り組まれましたか?
ひとことで言うと、障害福祉施設の経営をDXの視点でサポートするという事業です。
具体的には、障害福祉施設の利用者の集客・採用の支援、請求などのバックオフィス業務の効率化などです。
顧客であった障害福祉施設は、IT化があまり進んでいなかった業界です。
いまだにFAXが使われるのも普通だし、民間企業ではシステムで自動化されている業務も、手書きやExcelでの書類作成が当たり前でした。
求人があればハローワークに出すし、利用者さん向けのホームページも充実しているところは少なかったです。
これらの課題に対応するために、「LITALICO発達ナビ」や「LITALICO仕事ナビ」、「LITALICOキャリア」といったサービス・プロダクトを次々と立ち上げていきました。
ビジネスモデルはいわゆる「SaaS」でして、障害福祉施設の抱える課題を解決するプロダクトの利用に応じて障害福祉施設から毎月お金をいただくことを基本の形としました。
私自身、「インターネットビジネス」の事業領域は初めてで、最初は戸惑うことも多かったのですが・・素晴らしい仲間たちやお客さまに恵まれて事業を成長させることができました。
ー慣れない分野ということで、NPOでのキャリアは「ゼロリセット」だったのでしょうか?
たしかに、インターネットビジネスの知見や実績という点では自分には足りないものも多かったのですが、「事業を立ち上げて、伸ばしていく」の基本は、企業でも非営利でも大きな違いはありませんでした。
私自身、強みかなと気づいたのが、粘り強いこと。諦めないこと。
新規事業は特に立ち上げの頃は失敗ばかりですが、「うまくいかないもの」だと腹をくくれます。
自分ではあまり感じないのですが、おそらくメンタルが強いのでしょうね(笑)、業績やユーザーの声など、厳しいフィードバックがあっても必要なことを淡々と進めていける方だと思います。
そして「社会の課題をどう解決するか?」「ビジネスとして成り立つのか?」を両輪にして成長させるのも、RCFと同じでした。
LITALICOは「障害のない社会をつくる」というビジョンを何よりも大切にしている企業です。
そういった特性もあったかもしれませんが、クライアントやユーザーと一緒に、みんなが幸せになれる仕組みをつくる。
それが、「障害福祉」という業界や「デジタル」という方法に置き換わっただけと捉えています。
ーでは、NPOでの経験が特に活きたことは?
ひとことで言えば、「マネジメント力」です。
NPOには、給料を下げてでも社会的意義を求めて転職してくれた優秀なメンバーが多くいます。
RCFに限らず私の周りでも、外資コンサル・金融やキャリア官僚、大手商社や銀行など一流企業の出身者も少なからずいらっしゃいました。
「想いを持って集まってくれたメンバーがそれぞれの強みを活かし、成長してもらうには?」
もちろん給料という報酬もありますが、どうしても十二分には報えない反面、成長ややりがいなどの目に見えない報酬を最大化できるか?も大切です。
この経験は、LITALICOで事業部のメンバー100名以上を統括するようになってからも活きました。
マネジメントという意味ですと、もう1つありまして‥
ーぜひお聞かせください。
はい、「ステークホルダー・マネジメント」でして、特にNPOでは高度なレベルが求められると考えています。
RCFでは、行政や企業、地域住民など、さまざまな利害関係者とやりとりしながら、共通のゴールに向かえるようコーディネートしていく、という難しい問題を突きつけられました。
特に地域の方々とは、ビジネスの視点だけでは信頼関係を構築することはできません。
私自身も釜石市のコミュニティ支援プロジェクトでは、釜石市の仮設住宅に住み込みました。
陸上部出身ということもあって、中学の駅伝のコーチを務めさせてもらうなど、地域に溶け込む努力もしていました。
そういった、ビジネスの視点だけでは取り組まないような、難しい課題を克服する過程で鍛えられるのか、RCF出身者は退職後も活躍しているんですよ。
スタートアップを立ち上げた人や、官庁に戻りキャリア官僚として活躍している方など、行き先はバラエティに富んでいます。
「上場企業の執行役員」というポジションを捨て起業へ
ーNPOでのご経験は企業でも活かせたんですね。新規事業の業績はいかがでしたか?
クライアントやユーザーの皆さまのおかげで、新規事業は無事に立ち上がりました。
私が管掌していた「プラットフォーム事業」は、売上が約20億円弱(2022年3月期)と、私が責任者に就任した時には売上0円だったものが大きく成長しました。
LITALICOが東証プライム(旧一部)上場で売上約200億円なので、新規事業の規模は大きくはないですが、始めた頃に描いていた時よりは速いペースで成長できました。
福祉施設や学校・保育園、企業など2万件以上に利用いただき、新規事業チームも今では200人を超える大所帯になりました。
初めの頃は営業からサービス開発まで現場の仕事をしていましたが、直下の事業責任者が成長してくれたり、採用できたりしたことによって、直近1,2年間はオペレーショナルな部分はほぼメンバーだけで回してくれるようになりました。
優秀なメンバーが持つ力を十二分に発揮してもらえ、みんなで事業を成長させることができました。
ー執行役員の立場で担当している新規事業も成長している中で、起業されると伺いました。どんな背景でのご決断でしょう?
はい、今年4月末でLITALICOを退職して、「株式会社streams」を設立しました。
きっかけはコロナ禍でした。
子どもたちは「運動会など行事が中止に」「友達とも十分に遊べない」など、大人たちの事情によって大切な機会を奪われている。
「なぜ子どもたちに、しわ寄せがいくのだろう?」と。
コロナ禍をめぐる政府や行政の対応については、人によってさまざまなお考えがあることはもちろん承知していますし、そもそも政治行政の意思決定は我々国民の鏡だと思っています。
「この子どもたちが大きくなった時に、もっと良い社会になるのか?」と考えた時、今のままでは私は自信を持って「Yes」と言えなかった。
それなら、自分が何か始める時期なのではないか?
2年近く自問自答を続け、起業を決断しました。
ー事業内容を、今お話しできる範囲でご説明ください。
政治行政と企業とが一緒に政策をつくるオンライン・プラットフォームをつくっていく予定です。
政策というと「霞ヶ関で官僚がつくるもの」と多くの人に思われていますが、企業の「ロビイング」が法改正に結びついた例もたくさんありますし、これから社会を変革していくためには、これまで以上に政治行政と企業が一緒になって新しいルールをつくっていくプロセスが大切だと感じています。
しかし、ルールづくりをどのように行うのか、どうやって政治行政に働きかけていくのか、方法論を知っている企業はごく一部です。
行政や政治と対話できるチャネルも、「あらゆる企業に開かれている」とは言いづらい。
だから、公益を見据え政策を提案したい企業と、政治や行政の関係者がオンライン上で政策について情報を共有し、対話をできる場をつくろうと考えました。
ー行政や政治は、「スタートアップ」と真逆の印象です。岡本さんはなぜこの分野を選ばれたのでしょう?
政治や行政というと、「動きが遅い」「古い価値観」、私たちが何をやっても「変わらない」
そんなイメージを抱いている方もいらっしゃるかもしれません。
でも海外では、先ほど述べたプラットフォームには既にスタートアップが取り組み、成長しています。
日本でも「PoliTech(ポリテック)」と呼ばれる流れのもと、テクノロジーを活かして民意を反映させようというサービスも登場してきていますね。
行政で働く方々も、さまざまな制度やしがらみのなかで「社会のために」と必死で頑張っている。
そして、ひとたび行政が動くと、大きなインパクトがあるんです。
ー例えばどんな影響が?
はい、LITALICOで携わっていた障害者支援ですが、これまでは原則として事業所に通わなければいけなかったんですね。
ところがコロナ禍で、基礎疾患がある方々は外出しにくくなってしまった。
そこで、コロナ禍で行政がオンラインの支援を認める通達を出し、そこから一気に在宅での支援が普及しました。
「支援を受けられるか否か?」は、障がいがある方にとって時には命にも関わるので、政策の拡大によって助かった人たちはたくさんいたはずです。
NPOや企業を巻き込み、行政と市民と手を携え共通の目標に向かっていけば、“政策の扉が開く”体験をしてきました。
ー最後に、今後の展望をお聞かせください
社会的インパクトと、持続的なビジネスの両立。
それらをNPOや企業など個々の取り組みだけではなく、政治行政や市民を巻き込んだ大きな動きにしていく。
想いを込めたサービスをつくり、ユーザー数も売上も伸ばしていく。
もちろん簡単なことではないですし、長い時間がかかると覚悟しています。
子どもができてから物事に取り組むための「時間軸が長くなった」と感じています。
目先の結果より、「この子どもたちが大人になったときに、どんな社会をつくれるのか?」「その時に胸を張れる仕事をしたい」と意識が向く先が変わっていきました。
起業して、まだ3ヶ月も経っていません。またゼロからの挑戦です。
これから先の長い道のりを、じっくりと仲間たちと歩んでいきたいです。